この卒制の勝負どころを見極めたい。
建築の「空間」では評価できない建築のようなもの。
データであると同時に忠実なプレー空間の再現でかつ演出。
「ファンタジスタのプレー」そのものの構築。
身体をトレースし、失われた身体性を指摘する作品と比べてサッカーが建築に近い点は、相手が存在し、それが障害物として現れ、その関係性から空間が議論されることだ。
つまりサッカーはかなり建築的なものである。
むしろ建築より建築かもしれない。
建築は壁によって区切られた空間のなかでアクティビティが展開される。
しかし、利用者の任意性を手放しに放置し、起こりうるアクティビティはある想定の中で自由に展開されるものとしてつくられる。
一方でサッカーの空間は空間を構成する要素それぞれが意思を持っていて互いの関係の中で拘束された空間を利用する。しかし、一方でそれら要素は絶対的ではなく、リスキーな壁とも表現できるように多くの「隙」が存在する。その「隙」の世界のなかで創造性を発揮するのがファンタジスタである。
つまりこのオブジェは絶対的にみえる線形空間のようでいて「隙」を模索するファンタジスタの創造なのである。それは空間を構成する要素それぞれが等価に意思を持っていてかなり複雑な動的な構築の中で発見される「隙」である。
つまり鍵となるのはシークエンスであり、それを端的に表したものがこの作品である。
うーん。
どうかな。
言いたいことを言ってるようだけどそのことがデータであり演出であることとどんな関係があるのだろう。
もしかしたらファンタジスタは模型の色を変えた方が良いかもしれない。
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