2012年1月3日火曜日

サッカーは建築にならない

OpenAの馬場さんがどう考えていたかは知らないがサッカーから建築をつくることは難しいのではないか。サッカーを建築の言語に変換し、建築としての評価を得ようとするとそれは建築になろうとしたサッカーであり、似せることしかできていない。
ありのままのサッカーでいてくれたほうが僕は嬉しい。そこに「建築」としての意味をもとめてはいけない。
サッカーの構築をそのままオブジェ「ケンチク」にしたとき、そこに現れるのはサッカー戦術の違いである。それをそのまま批評しては建築のフィールドにもってくる意味はない。
オブジェ「ケンチク」にすることの意味を問う。

またもう一つ。その今までは時の流れとともに現れては消え去っていくサッカーの構築を「ケンチク」としてつくることの意味はなんだろうか。「つくること」はそれがいくら錯覚であっても「こわすこと」をもたらす。その物体の現出と消失は何を意味するのだろう。哲学。
なぜ人間は生まれて死ぬのだろうかに似ている。

とりあえずつくってその違いをはっきりさせてから見えてくるものがあるかもな。バルサつくるぞ。

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