2011年10月30日日曜日

公共


公共とは社会全体に関すること[1]を取り扱う上において利用される用語であるが必ずしも抽象・理念的なものではなく、「私」や「個」と相互補完的な概念である。例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人[2]にも恩恵をもたらす。ある種の協働や個人的なおこないが不特定多数の他人に、結果として広く利益をもたらすような状況はしばしば観察され、それらの類型がしばしば「公益」「公共行為」と見なされる。
しかし井戸の例では、井戸を掘ることが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的であるという個々人の合意が形成された場合に、はじめて共同井戸が成立する。
「公共」の立場からは、「私」や「個」の利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着くという場合「公共」が成立するのであり、最初から全体の利益を優先して、個人や私人を意図的に信頼・重視しない全体主義とは異なる


wikiより


隈さんのいう白い箱とは物理的な箱というよりは個人、私的な箱という意味ではないだろうか。
現代の集合住宅は箱が並んでいる。つまり個個個個個個個みたいな感じである。決して閉じた箱が並んでいるというわけではない。そしてそこにネットワークは存在しない。
現代の学生のほとんどは隣の家に誰が住んでいるかなど知らない。

仮設住宅にも同じことが言える。特に漁村という強いコミュニティがバラバラになっていくことや、小学校の同級生と離れるなどがそれである。

現代の集合住宅の果たすべき役割について問い直す。
避難所では皆が助け合い、それぞれが場所を選択し、生き生きと活動していた。
集合住宅の理想ではないのか?

日本人は近代化と共に空間のヒエラルキーをつくり出し、ついにはマイホーム文化までつくり出してしまった。内に内に向かっていく日本人がコミュニケーション能力において海外諸国に劣るのはこの点が原因ではないか。

そこで近代の象徴、個に向かうヒエラルキーを排除する。
公共化する集合住宅は全体として安全、安心、にぎやかさを獲得し、集合住宅の役割は都市において、受け皿となり、活気を生み出す、人間の生活を基盤とした都市像をつくり出す。

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