2012年2月27日月曜日


この模型が建築的にみえることがなにか意味するのであればそれを説明したい。今のままではこれは身体的な空間感覚に基づいてつくったから建築だとしかいえない。
やはりできたものに対して幸運にも生まれている建築っぽさを何かしら説明したい。

まず壁によって仕切られ、空間ぽくなっているという点。
このとき浮いている部分はどのようにとらえられるのか。
いま、模型でフィールドをシュートを打つタイミングとしてつくっているがイメージされる建築っぽさはこのスラブなしでも得られるような気がする。 
人をコラージュしてみるとわかるが人をどこに配置するのがいいかよく分からない。やはりスラブを入れるのか。

ボール視点で見ることが建築だとするとオフェンスはボールを蹴って進める人でそれが単なる針金でよいのか。

まあもはや時間ないからそれほど改善してる場合じゃないのかもしれない。

コラージュは案外微妙だったからやはり絵はここまでで 説明の方を考えとこうか。
どっちみちこれが建築空間的であることをいいたいから外部講評からの発展事項はそれくらいにしてA1ボードに乗せる内容を考えるか。ボードかー。やっぱ図面とかかな。

明日学校いってゆっくり考えよ。とりあえず朝ご飯食べられる時間に起きよっと


2012年2月26日日曜日

つぎは

つぎはどうしようか。

人の、建築のイメージまではなんとかもっていきたい。

やはりこれがなんになるのかっていうのはどの人も感じるし自分も感じる。

SDLのプレゼンを考えたときA1ボードにのせるべきものがつぎにやるべきもののような気がする。

あれから得られることを建築の設計にいかすのか。

八重樫さんにはあれをつくって眺めること自体もう建築をみることなんではと言われた。菅原さん曰く、それはすでにあれが何となく空間的だから。

そりゃそうだ。だって建築的な感覚でサッカーを変換したのだから。
しかし視点はオフェンスでつくった。オフェンスとしてボールをもっているときどのようにDFを感じるかということを意識して変換した。そこが重要だと思ってプレゼンした。もしそれを第三者的な視点で見ることが建築であるとしたらどうなんだろう。
もちろんボール視点では壁という考え方ができないと思ったができるか。

ボールを妨げるのはディフェンスだしね。ボール視点でみたときどんなことが変わっていくのだろう。オフェンスはなんなんだろう。ボール視点になったとたん、壁の貫通の体験がある。
壁の貫通か。なんだろう。

ボールって人間と違い、速さに大きく変化がある。

またオフェンスやディフェンスには意思があるけどボール視点でみたときそこに意思はなくなってずっと悩んでいたゴールや敵という概念から逃れられるのではないか。

それはともかくここにさらに深くいくための鍵があるように思う。

ボール、そしてオフェンスそこらへんの意味と建築への転換はどうするかだ。


ボールは蹴られる。攻めのときはオフェンスに蹴られる。オフェンスが建築?
そこを体験する人たちがボールであり利用者か?じゃあ壁はなんだ。

覗き込むことでなんとなく建築的な雰囲気を得ることは何を意味するのだろう。それをすることでどんな新しいことが設計に生かされるのか。やはり今までのはスタディだったんだ。

なんとなく建築的な視点でみることは何の視点だ。ボールの視点なのか。オフェンスやディフェンスのつくり出す空間を眺めて動くことが建築的なみかたか。本来はオフェンスやディフェンスの意思でボールは動くが、それをボールの意思だとしてオフェンスやディフェンスをスタティックなものとしてみたからできあがったのだとすればすごくうまく説明がいくんではないか。

きた。

では建築的な視点のボールの動き方は貫くや超えるくぐるなどその壁がつくり出す状況を読み取って行われる。そこでパスは表現するのだろうか。またオフェンスは存在の意味だけでよいのだろうか。

読み取ること。それが今回の設計のポイントだとすればどのように建築の設計にいきてくるのだろう。

設定にのっとるとすると時間軸が下に向かうから常に下向きに動くことにはなる。

そこに道筋をしめすことが建築行為だとしたらつまりプレーの設計ともいえる。
オフェンスの攻撃を成り立たせることが建築の設計になる。

うーん。言葉ばかりすすまないで実際にどんなことができるかもだしたいな。

あの模型でいうとだ。まずパスを消す。そしてそこにボールの道筋を示すのが設計で。うーん。その設計がなんになってくるんだろう。ボールの道筋を設計して、例えば貫く、くぐる、こえるなどだ。そ れ を? そこを単純に歩く場所にしてしまうか。それもひとつある。そこでスケールをいじるのか。あの空間体験がどんなスケールで行われるのかだ。

うおおおお。でてこいでてこい。

意味をもつタイミングっていうのがあるかもしれない。自由にボールの道筋を選択できるのではなく、あるときのある状況のなかの判断であることは譲ってはいけないのかもしれない。うーん。とりあえず過去にはいかない。どれだけ未来を選択するかは自由だけど。

サッカーではボールは1つだけど道筋はもってなくても示してよいかもしれないかもかもかも。

どれだけの未来を選択できるかが建築の設計とどのように関わるか。そのボリュームを範囲と時間帯のボックスを挿入するとか。

でも体験する空間がフラットでいいのか。

もどるとここにボールが通せるとか考えることが建築を考えることだとか。うーん。

2012年2月16日木曜日

ヘボプレー

中間発表、最終講評でヘボプレーを見せてくれたら分かりやすいとの指摘をいただいた。
ヘボプレーとはつまりすぐ取られるということだ。

今の設定だと取られるということは線が壁になる、壁が線になるということを示している。それはどうなんだろ。そもそもオフェンスが線という設定をした時点でそれはオフェンスが取られずにゴールまでボールを運ぶということを前提としている。

そこがおかしいのかな。ディフェンスが抜かれる際、ディフェンスの状態からそれが抜けやすいとか議論してはいけないのではないか。むしろすべて壁なのではないか。人と人の関係を壁×壁で表現する。

そうすると攻守の切り替わりは何で表現されてくるのだろう。その動き方だけで攻守は分かるのか。前にも触れたが相手がいるということは重要だ。それが同じ表現で共存できるのだろうか。ディフェンス同士、オフェンスとディフェンスの関係は異なる。前者は協力するし、後者は互いを妨げる。
ドリブルなら分かるかな。一方でロングボールは分からないかもしれない。うーん。


あと1つ気になるのが壁の高さだ。離れるほど高い。近いほど低い。普通の人がみたら壁が高い方がプレッシャーがかかっているように感じるからだ。これは完全に玄人的視点でさだめている。近い方が抜きやすいから低いんだ。これはいいか。

戻ろう。

仮に線と壁が正しいとしてその表現技法ではなく、模型で可視化したことに対して見えてくるものがなんなのか。それがもしかしたら表現の修正に効いてくるかもしれない。

この模型をみるということは時間を見るということだ。ある時間帯のある場所からある時間帯のある場所をみる。時間をみる。そしてディフェンスにはなかった見方が必ずあってそれが裏をつくり出す。
オフェンスの名プレーはディフェンスのヘボプレーであるともいえるからその見落としていた視点が名プレーであり、ヘボプレーを生む。

ディフェンスの名プレー、オフェンスのヘボプレーはあり得るのだろうか。あり得る。もはやほとんど同じかな。オフェンスが見えていたらよかった場所があるはずでそれはディフェンスの見落としとほぼ同じだと考えられる。ではその形態は変わってくるのだろうか。
ディフェンスは壁としての連携である。取るまでを表現するのかな。
うん。つくってみようかな。

で。

つくってあるオフェンスの名プレーについてどうしようか。
そのディフェンスのヘボさを表す視点をどのように扱うか。壁であったら良かった部分。
ディフェンスの名プレーだったら出したら良かった部分。
可能性の議論になるがこの一度トレースの終わったあとに見えてくるのはこの可能性などの虚の部分だ。

この虚の修正点というか赤ペンというかそれが何を示すのだろう。それが建築か。
ひょえええ。

むずかしい。

つまり修正したら絶対的になっちゃうから。なんかへりくつだな。違う気がしてきた。
対ファンタジスタの覚醒。

名プレーこわしてどうすんだ。うーん。時間を超越してみれる。未来予測はできる、過去については??  うーん。

その表現はなんだ? 同じ表現ではダメだ。「壁であったらよかった場所」をフィールドを引っ張る?? 「ソリッドだったらよかった場所」だよな

だからなんなんだー。

今やってることを整理すると模型を用いて時間をある程度超越してみることができるようになったとき、ファンタジックなプレーの裏のヘボなプレーを修正できるということだ。

問題はその修正の意味だ。もう虚の世界に突入している。模型をつくってそれに対して分析し加えるのかどうか。

つまり絶対的になるために、完璧にディフェンスするために手をくわえること。実際はそんな動きはできないような物体として現れたものたちはなんなんだ。それはサッカーではなくなっていく。
ファンタジスタがいない世界が建築だとすると、そこを壁ではなく、フィールドなどの本来絶対的な条件で埋めるべきなのではないか。

うーん。いまだへりくつ。新しくできる壁かなんかは貫かれるのか否か。

あんまり頭でっかちになるよりも模型つくったほうがいいかな。

ディフェンスの新しいシークエンスか。だ。か。ら?

実際の建築に考え方でもいいから何か示唆を返したい。動×動の等価で変化するものによる空間のシークエンスは固定的な建築と切り離されて議論してきた。それをどのように建築に返すか。うーん。

さらなる発展

卒制の発表が終わり、どのように発展させようか考えています。これは全然飽きないからいいね。まず最初に何日も手伝ってくれたりょーすけ、やなぎださん、よこたさん、俊平に感謝したい。展示サポートしてくれた永田さんにもかなり感謝している。みんなでつくった卒業設計だった。だからこそこれで終わりにしてはいけない。
石田先生に指摘いただいた未来派彫刻をいかにして超えていくか。
堀口先生にはボールは徹底的に表現せず、人の動きだけ表現し、またフィールドが歪むなどの実から虚への展開というアドバイスをいただいた。確かに人の動きが重要であるとすればボールであるパスは描かない方が良い。ではフィールドが歪むとはどのように捉えたら良いか。なにかしら手順をおそらくふまないと実空間に返ってこない気はするのだが。
今まではサッカーをそのままつくることに力をいれていた。しかし出来上がったのはサッカーそのものであり、それ以上になりえない。そこに1つわがままをいれることが建築なのかな。前回というか最終までで一番重要なのは動×動の関係だ。それが建築と定義した。そしたらそこを利用するときの建築的偏見みたいなものをいれればよいのかな。未来派がどんなことしたか調べないとな。

プレーを分析して時間変化する空間を可視化した。それを分析して新しい何かを発見するのか。プレーの時間変化を可視化したことにより、新しい見方がうまれたことは確かである。模型をみるという行為は時間変化するプレーを一見することができるということだ。
それによってグティのスルーパスの模型は一見ごちゃごちゃしているが実は一番フリーなプレーであるというギャップを生む。ディフェンスはプレー開始時フリーなスペースをつくらなかったが時間変化とともに居場所が変化し、プレー後半ではフリーなスペースをつくる。これを同時にみるのでフリーな様子がよく分からない。
「時間」が重要である。時間をもって空間を使うこと。使い方を考えることが重要なのである。
空間を認識する指標は時間変化のなかの人と人の関係であり、人とものの関係である。これが建築を考えることである。

それとは別の話かもしれないがサッカーのファンタジスタではなく建築言語のファンタジスタをプレゼンしたい。時間をもって形成される絶対的でない人による空間を貫通や超えるという概念がファンタジスタのプレーである。

今問題なのは図を立ち上げただけになっているということだ。それは未来派がやったことらしいし。それに対する解釈や変換を加えないと作品になるとか実際の建築にかえってくるだとかを議論できないのではないか。

時間を同時的にみる俯瞰的な視点と平面できってみるようなその場の視点をどのように解釈し次の段階に持っていくか。

同時的にみるインフォグラフィクス的な意味合いをどのように再解釈するのだろう。また同時的にみれるようになったことにより空間の時間変化を意識しづらくなったことをどのように説明しようか。

自分のつくったものがなんなのか分からない。

壁の高さの意味合いがインフォグラフィクス的すぎるのかな。
壁を薄くしてもそれを突き抜ける針金は同時じゃないから、結局貫く瞬間は壁が厚かったりする。

さてどうしたものか。