2011年9月9日金曜日

ふぎゃ

自分らしい設計テーマを考えてます。

環境問題、震災問題、建築史、建築の情報化、芸術性、資本主義、センス、リサイクル、保存、改修、勇気、情報化社会、原子力、ファッション、独自性、世界観、政治、意思疎通、理不尽、才能、周りの刺激、生物、デザイン、公共。



建築の果たすべき役割が問われることは自明。つまりあなたが建築を設計する際に何を考えていますかってことだ。

もちろん図面の書き方、完成度のあげ方は重要だ。だがそれはどのくらいできるか目に見えてるしもっと重要なのは自分の考え方、考えの深さ、斬新さ、妥当さだと思う。てかそうあってほしい。


最近自分が課題などで突き詰めようとしたテーマはなんだっただろう。

映像と建築、断片的なシーンの連続による空間認知と現実の建築との差異、人間のエゴ(特に設計者の無意識な)と「状況」「条件」をふまえることによる建築の妥当性、説得性の獲得のアホらしさ。建築家の作家性とその汎用性。その場所のらしさ。ヴァナキュラー。建築家のデザインのレパートリー。いいもの。

たいてい建築がつくられる初期段階ではだれにとっても明らかな問題が転がっていて(それは拾いやすいもの)それを個々人のエゴによってひねくり回す。建築の本質を内部空間とするとそのディティールまで配慮のいきとどいた「人間に親身かつ目新しい」な建築が評価される。

この問題は一度「天気を施主にする」という課題で突き詰めた。
天気を施主にすると天気の判断基準によって建築?が評価されるからだ。むろん天気が講評してくれるわけではないし、感情や論理のあるものでないから結局人間の判断基準によって評価される。

僕ははじめルーバー状の屋根を設け、それの角度を少しずつずらすことで影のグラデーションをつくることを考えた。これはもし完成すればとても美しい空間ができたであろう。

しかしそれはあくまで僕の「おもしろいだろう」という思いによってのみ支えられている案である。それはもちろん影のグラデーションなんてできたらきれいだろう。でも天気はそれができたところで何の影響も受けないし、感じない(ここがおかしいところだが)

その点最終案の空に伸びていく建築は天気にしたがって、天気によって形態が決まってくる。そこでは人間の存在は一度消えている気がした。もっともすぐに現れるのだが。

自分は天気が施主ということを一生懸命考えたはずだがいつもそこでは擬人化して考えてしまう。

こんなふうに考えをこねくり回していくら手順をふもうが目に留まりやすいのはまずイメージであり情報である。それで引き込んで深くみてもらう。学生のなんて実施でないのだから情報になりやすい。

情報。つまり「映像」や「言葉」と同等になってる。ぶはっ


いい意味でも悪い意味でもポストモダン以降はこうした議論の路線から外れてきたと僕は認識している。一般的にそういっているのを鵜呑みにしているだけかもしれないが。

建築の価値(僕の少ない語彙ではこれしかでてこない)を議論することが建築の歴史であり、人間の歴史でもあった。そこを逸脱するとそれはもはや建築ではなくなるのかもしれない。でももっと人間の歴史の中でこれらのこと(社会性とかデザイン性じゃなく)を考えた物体があってもいいんじゃないか。
ちょっと考えてみようと思う。未来の建築。

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