あと54分後にせまったゼミのための卒業設計をどうするかを書きながら考えたいと思います。
とっかかりはとりあえず最近の興味からかな。
心理的自己崩壊、資本主義の崩壊、快適さ、エナジースケープ、自然と呼応した建築、自己崩壊した人たちのための家、雄勝における超具体建築。みえ。
まず心理的自己崩壊した人たちのための家。震災による変化をとらえた建築ともいえる。
安全、安心、快適、人命の感触。
不明な世界への不信感からの自立。自分の身は自分で守る。自給自足、地産地消。
超コミュニティハウス。
超庶民的快適。→家が家である条件。
・家族がいる
・寝る場所があり、布団があり、清潔である
・水が出る。
・電気がつかなくても生活できる
・ダニ、ノミがいない
・食糧がある。調理できる。
・日当りがよい
・電話がなくても外部と接することができる
・命をまもる
・建築は土地から生えてる、土地の記憶。からの安心感
・個室がある。社会性のヒエラルキーをもった空間を有する
・トイレが使える
・自力で安全な場所に逃げられる
・手に入れられる
・現実を受け入れず忘れたようにもとの生活に戻ろうとする、資本主義の世界に戻ろうとする世界への警鐘
あなたはいま311と同じ状況が引き起こされたとき対応できますか?
食糧は?水は?仕事は?逃げる手段は?家は?どこに逃げる?何を守る?優先順位をつけられる?
ハウスメーカーの肯定
価格が安く、そこそこ快適な空間、家族を守れる空間をつくれている
建築家の無能性
一度きります。
次は雄勝における超具体建築について
雄勝の状況はかなり把握している。法的、経済的、政治的な縛りもなんとなく分かる。
卒業設計は通常そのような縛りを捨てて考えるがそこをクリアしつくる。そこでも何が優先なのか、震災によってかわったものを反映する。
海と山が近い、リアス式海岸、清流が多くある。これらを利用して雄勝でしかつくりだせない風景をつくれないだろうか。
被災地の印象はいつもぼくらが切り落としていたことを含めて考えている。ただそれらを+αで考えているのではなく、相互作用して全く予想できない変化をみせる。そこには快適性、経済性のほかに見栄やコミュニケーションに関することが大きく関わる。建築などの物体は使われなければ何の意味も持たない。建築家と被災地の乖離の根本。
ふぅ。
2011年10月4日火曜日
2011年10月2日日曜日
1002
芸大受かっちゃいました。
正直投げやりにうけて受かってしまったのでとまどう。
受かった後のことを考えていなかった。
芸大の学習環境としての魅力は東北大よりもある。
しかし、学習環境のために4年間すごした土地、友達と別れるのは寂しい。
自分の将来のためとはいえ、それが全てではない。
おそらく東京にいったら仙台に帰りたくてたまらなくなるだろう。
それくらい思い出が詰まっている。もはや第2のふるさとだ。
東京にいったらそれはそれで新鮮な毎日が待っているだろう。戸惑いながらそれを乗り越え成長できるだろう。
安定は安心を生み出し、不安定は成長を促す。
これは人間の宿命で神様が与えた人生の難しさのように思う。
とりあえず寂しい。
毎日毎日、友達や先輩、先生など身の回りの人との時間を大切にしようと思う。
時間の流れは残酷だけど時間の流れを感じながら生きていける生活、毎日が思い出に残るような素晴らしい生活を送っていきたいと思う。
正直投げやりにうけて受かってしまったのでとまどう。
受かった後のことを考えていなかった。
芸大の学習環境としての魅力は東北大よりもある。
しかし、学習環境のために4年間すごした土地、友達と別れるのは寂しい。
自分の将来のためとはいえ、それが全てではない。
おそらく東京にいったら仙台に帰りたくてたまらなくなるだろう。
それくらい思い出が詰まっている。もはや第2のふるさとだ。
東京にいったらそれはそれで新鮮な毎日が待っているだろう。戸惑いながらそれを乗り越え成長できるだろう。
安定は安心を生み出し、不安定は成長を促す。
これは人間の宿命で神様が与えた人生の難しさのように思う。
とりあえず寂しい。
毎日毎日、友達や先輩、先生など身の回りの人との時間を大切にしようと思う。
時間の流れは残酷だけど時間の流れを感じながら生きていける生活、毎日が思い出に残るような素晴らしい生活を送っていきたいと思う。
2011年9月19日月曜日
919
生き方が下手だ
震災から半年
一生懸命頑張ってきたがあまり自分にプラスになってない。
得るものは多かったが失うものも多かった。
5年先をどう生きたいか考えて今行動しないと。
何より足りないのは計画性とそれに伴う判断力
いつも時間ないのは目の前のことを一生懸命こなしているだけだからだ
もっと明確に目標を持ってしっかり計画的に生きないと
震災から半年
一生懸命頑張ってきたがあまり自分にプラスになってない。
得るものは多かったが失うものも多かった。
5年先をどう生きたいか考えて今行動しないと。
何より足りないのは計画性とそれに伴う判断力
いつも時間ないのは目の前のことを一生懸命こなしているだけだからだ
もっと明確に目標を持ってしっかり計画的に生きないと
2011年9月9日金曜日
ふぎゃ
自分らしい設計テーマを考えてます。
環境問題、震災問題、建築史、建築の情報化、芸術性、資本主義、センス、リサイクル、保存、改修、勇気、情報化社会、原子力、ファッション、独自性、世界観、政治、意思疎通、理不尽、才能、周りの刺激、生物、デザイン、公共。
建築の果たすべき役割が問われることは自明。つまりあなたが建築を設計する際に何を考えていますかってことだ。
もちろん図面の書き方、完成度のあげ方は重要だ。だがそれはどのくらいできるか目に見えてるしもっと重要なのは自分の考え方、考えの深さ、斬新さ、妥当さだと思う。てかそうあってほしい。
最近自分が課題などで突き詰めようとしたテーマはなんだっただろう。
映像と建築、断片的なシーンの連続による空間認知と現実の建築との差異、人間のエゴ(特に設計者の無意識な)と「状況」「条件」をふまえることによる建築の妥当性、説得性の獲得のアホらしさ。建築家の作家性とその汎用性。その場所のらしさ。ヴァナキュラー。建築家のデザインのレパートリー。いいもの。
たいてい建築がつくられる初期段階ではだれにとっても明らかな問題が転がっていて(それは拾いやすいもの)それを個々人のエゴによってひねくり回す。建築の本質を内部空間とするとそのディティールまで配慮のいきとどいた「人間に親身かつ目新しい」な建築が評価される。
この問題は一度「天気を施主にする」という課題で突き詰めた。
天気を施主にすると天気の判断基準によって建築?が評価されるからだ。むろん天気が講評してくれるわけではないし、感情や論理のあるものでないから結局人間の判断基準によって評価される。
僕ははじめルーバー状の屋根を設け、それの角度を少しずつずらすことで影のグラデーションをつくることを考えた。これはもし完成すればとても美しい空間ができたであろう。
しかしそれはあくまで僕の「おもしろいだろう」という思いによってのみ支えられている案である。それはもちろん影のグラデーションなんてできたらきれいだろう。でも天気はそれができたところで何の影響も受けないし、感じない(ここがおかしいところだが)
その点最終案の空に伸びていく建築は天気にしたがって、天気によって形態が決まってくる。そこでは人間の存在は一度消えている気がした。もっともすぐに現れるのだが。
自分は天気が施主ということを一生懸命考えたはずだがいつもそこでは擬人化して考えてしまう。
こんなふうに考えをこねくり回していくら手順をふもうが目に留まりやすいのはまずイメージであり情報である。それで引き込んで深くみてもらう。学生のなんて実施でないのだから情報になりやすい。
情報。つまり「映像」や「言葉」と同等になってる。ぶはっ
いい意味でも悪い意味でもポストモダン以降はこうした議論の路線から外れてきたと僕は認識している。一般的にそういっているのを鵜呑みにしているだけかもしれないが。
建築の価値(僕の少ない語彙ではこれしかでてこない)を議論することが建築の歴史であり、人間の歴史でもあった。そこを逸脱するとそれはもはや建築ではなくなるのかもしれない。でももっと人間の歴史の中でこれらのこと(社会性とかデザイン性じゃなく)を考えた物体があってもいいんじゃないか。
ちょっと考えてみようと思う。未来の建築。
環境問題、震災問題、建築史、建築の情報化、芸術性、資本主義、センス、リサイクル、保存、改修、勇気、情報化社会、原子力、ファッション、独自性、世界観、政治、意思疎通、理不尽、才能、周りの刺激、生物、デザイン、公共。
建築の果たすべき役割が問われることは自明。つまりあなたが建築を設計する際に何を考えていますかってことだ。
もちろん図面の書き方、完成度のあげ方は重要だ。だがそれはどのくらいできるか目に見えてるしもっと重要なのは自分の考え方、考えの深さ、斬新さ、妥当さだと思う。てかそうあってほしい。
最近自分が課題などで突き詰めようとしたテーマはなんだっただろう。
映像と建築、断片的なシーンの連続による空間認知と現実の建築との差異、人間のエゴ(特に設計者の無意識な)と「状況」「条件」をふまえることによる建築の妥当性、説得性の獲得のアホらしさ。建築家の作家性とその汎用性。その場所のらしさ。ヴァナキュラー。建築家のデザインのレパートリー。いいもの。
たいてい建築がつくられる初期段階ではだれにとっても明らかな問題が転がっていて(それは拾いやすいもの)それを個々人のエゴによってひねくり回す。建築の本質を内部空間とするとそのディティールまで配慮のいきとどいた「人間に親身かつ目新しい」な建築が評価される。
この問題は一度「天気を施主にする」という課題で突き詰めた。
天気を施主にすると天気の判断基準によって建築?が評価されるからだ。むろん天気が講評してくれるわけではないし、感情や論理のあるものでないから結局人間の判断基準によって評価される。
僕ははじめルーバー状の屋根を設け、それの角度を少しずつずらすことで影のグラデーションをつくることを考えた。これはもし完成すればとても美しい空間ができたであろう。
しかしそれはあくまで僕の「おもしろいだろう」という思いによってのみ支えられている案である。それはもちろん影のグラデーションなんてできたらきれいだろう。でも天気はそれができたところで何の影響も受けないし、感じない(ここがおかしいところだが)
その点最終案の空に伸びていく建築は天気にしたがって、天気によって形態が決まってくる。そこでは人間の存在は一度消えている気がした。もっともすぐに現れるのだが。
自分は天気が施主ということを一生懸命考えたはずだがいつもそこでは擬人化して考えてしまう。
こんなふうに考えをこねくり回していくら手順をふもうが目に留まりやすいのはまずイメージであり情報である。それで引き込んで深くみてもらう。学生のなんて実施でないのだから情報になりやすい。
情報。つまり「映像」や「言葉」と同等になってる。ぶはっ
いい意味でも悪い意味でもポストモダン以降はこうした議論の路線から外れてきたと僕は認識している。一般的にそういっているのを鵜呑みにしているだけかもしれないが。
建築の価値(僕の少ない語彙ではこれしかでてこない)を議論することが建築の歴史であり、人間の歴史でもあった。そこを逸脱するとそれはもはや建築ではなくなるのかもしれない。でももっと人間の歴史の中でこれらのこと(社会性とかデザイン性じゃなく)を考えた物体があってもいいんじゃないか。
ちょっと考えてみようと思う。未来の建築。
2011年9月6日火曜日
2011年9月5日月曜日
おでんパーティー
必死に夏を、青春を味わおうとした河原でのおでんパーティー。
なんか寂しかったな。
感傷的になると辛くなる。
案外院試に追われる日々はよいのかもな。
今日のBoCuタワー。
なんてことはない。
この自転車乗れたらいいのにな。
もっともチャリはあるけど
昨日のサッカーのせいで筋肉痛です。
イタイイタイ。
やはり癒しがほしいよね。
今日も頑張ります。
2011年9月4日日曜日
製図室ぼっち
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